2012年2月7日(火)

「北朝鮮墓参り」報道

 先日、終戦後、北朝鮮の清津からの引き揚げ者らで作る「全国清津会」の方々が「殉難死された方の慰霊ができていない。何としても現地で行いたい」と墓参りのための訪朝を外務省に正式に要請していた。北朝鮮にそのままにしてきた両親や子供、親族、友人らの墓参りを「死ぬ前に」との切迫した思いが伝わってくる。

 「清津会」だけでなく、「咸興会」もある。

 報道では、北朝鮮地域からの引き揚げ者は約32万人、3万5千人が現地で亡くなったとのことだが、これは公式に確認された数字で、実際にはその数はもっと多い。

 昭和25年(1950年)に引揚げ援護庁の資料「引揚げ援護の記録」によると、「終戦時の在外邦人生存者数は660万人以上である」。このうちソ連軍管区(旧満州、北朝鮮、樺太及び千島)には272万人と全体の41%にあたる邦人がいた。そして「戦時中の生死不明者が相当数あった」と記されている。

 朝日新聞(キーワード、北朝鮮の残留邦人)によると、「敗戦時、38度線以北の北朝鮮側に住んでいた軍人以外の邦人は27万人を超す」ようだ。さらに、「ソ連参戦後、約7万人が日本へ引き揚げようと、中国東北部(満州)から南下した。しかし、旧ソ連軍が38度線で交通を遮断したため、多くの邦人が北朝鮮各地にとどまざるえなかったとされる」と記されている。

 民間人だけで34万人。これにシベリアから移送された日本軍人を合わせると、総勢40万人近くの日本人が終戦直前まで北朝鮮に暮らしていた勘定になる。

 中国に残留孤児があって、東南アジアに旧日本軍人が生存していて、北朝鮮に一人も存在、生存していないとは常識では考えられない。日本の厚生省は国交がないことから一度も北朝鮮に赴いて、取り残された日本人の消息、安否をまともに確認したこともない。

 終戦60周年の年に某全国紙に掲載された投稿(「北朝鮮への墓参 早く実現を願う」が当時の状況を端的に物語っている。

 「60年前の8月15日、平壌の官舎で私達親子は終戦を迎えた。父は当時、将校として部隊に入っており、39歳の母、8歳の私、4歳と生後7か月目の弟、日本からついてくれた若いお手伝いさんの6人で生活していた。

 その2ヶ月前に、千葉の疎開先からやって来たばかりの私達だったが、この日のラジオ放送を境に生活が一変した。ソ連か下士官の略奪や暴行、手のひらを返したような態度の朝鮮の人たち、食糧難・・・・。私達は家を追われ、他の日本人家族とひきしめ合って暮らす毎日となった。

 年が明け、収容された鎮南港の倉庫で、やっと立つことができて嬉しそうにしていた一番下の弟が、その翌日に発病し、急逝く。りんご箱に入れられ、小高い丘の共同墓地に葬られた。若い母親たちが、多くの乳児が埋葬された土饅頭(どまんじゅう)にお乳を振りかけていた姿が今も忘れられない。

 その後、結核でやせ衰えた上の弟をおぶり、『38度線』を突破し、命からがら疎開先の千葉にたどり着いた。しかし、その一週間後に5歳になった弟は息を引き取った。マラリアに苦しんだ妹もその後、18歳の若さでこの世を去った。

 10年前には、抑留されていたシベリアから生還した父と、下の弟を北朝鮮に埋葬してきたことを案じ続けていた母が相次いで他界した。気がつけば、あの丘の上に眠る弟を知っているのは私だけになった。母の悲願だった北朝鮮への墓参を一日も早く叶うのを願ってやまない」

 中断してしまった日本人妻の里帰りも含めてこうした人道問題を解決するためにも拉致問題を早期に解決しなければならない。