2010年11月1日(月)

南北離散家族の再会と日本人遺骨問題

 約1年ぶりに南北離散家族の再会が行われた。

 李明博政権になって2度目の実現となった今回の離散家族では北朝鮮側の面会者、97人の中に朝鮮戦争で「戦死した」はずの韓国軍兵士4人が含まれていた。この4人については北朝鮮に今なお抑留されているかもしれない韓国側の捕虜名簿(約500人)にもなく、また韓国の家族は、とっくに戦死したものと思い、墓まで立て、毎年法事までしていたというからビックリ仰天したことは言うまでもない。春日八郎の歌「お富さん」の「生きていたとはお釈迦様でも知らぬ〜」どころの話ではない。

 最高齢は90歳のリ・ジョンヨルさんで、朝鮮戦争(1950−53年)当時は30−33歳歳。4人の中で一番年下は77歳のリ・ウォンジクさんで、18〜20歳で入隊し、戦場に送られた。4人はかわいそうなことに休戦から2年後の1957年には韓国政府から「戦死者」として処理されてしまった。それもこれも1953−54年の3度に渡る北朝鮮側との捕虜交換時に送還されなかったためだ。

 リ・ジョンヨルさんは生後100日で生き別れとなった息子、リ・ミングァンさん(61歳)と会った際に「ミングァン、お前のことは一日も忘れたことはない」と涙し、早還暦を過ぎ、白髪の交じった息子を抱いていた。リ・ウォンジョンシクさんも再会した83歳の姉と弟から「案じ続けていた両親が亡くなった」ことを聞かされ嗚咽していた。

 今回の一件で韓国では北朝鮮に抑留されているままとなっている「国軍捕虜」はまだ相当数いるものとみて今後の対応を検討している。

 休戦当時国連軍は韓国軍失踪者の数を8万2千人と推定していたが、北朝鮮側から捕虜として引き渡された韓国軍兵士は約10分の1の8千4百人程度。残りの消息、安否は今もって確認されないままである。

 そう言えば、先週水曜日にあった長野の松本での講演で元シベリア日本人抑留兵の方から似たような話を聞かされた。

 「終戦後に捕虜となりシベリアに抑留されていたが、しばらくして日本に戻れるということになりロシアのポシェットから貨車に乗った。ところが、着いたところが、日本ではなく、北朝鮮の興南だった。清津から北方に行ったところにコモサンという山があるが、全員そこに送られた。その数、2万人はいたと思う。宿泊施設はなく、野営で、飢えや寒さで毎日40〜50人は死んでいった。一番多い時で78人だ。私は死体を数える当番だったので、正確に覚えている。幸い10日間で、私は再びシベリアに戻されたが、その後、どうなったのかはわからない」

 シベリア抑留者は60万人以上に上ると言われているが、シベリアから北朝鮮に移送された抑留兵の数は、その10分の1、6万とも7万人とも言われているが、今もって正確な数はわかっていない。

 日本政府の公式の見解は@北朝鮮への移送事実は昭和21年(1946年)には承知していたA具体的な数については把握していないB北朝鮮で亡くなった者の通知については(家族に)行ってないC北朝鮮政府に対する資料、情報の提供、調査団の受け入れについては日朝関係などの状況を見つつ、今後対応を検討するーーというものだ。簡単な話、終戦から65年経っても野ざらしのままだということだ。

 それもこれも国交がないからだ。北朝鮮との関係が正常化されない限り、生死の確認も、安否の調査も、遺骨の収集も、墓参りもできないということだ。

 北朝鮮と国交がなく、天敵関係にある米国ですら、朝鮮戦争で失踪、死亡した米軍兵士の遺骨収集を北朝鮮の協力を得て行い、発掘し、遺族のもとに引き渡しているのになんとも情けない。

 日本政府は赤紙一枚で兵隊に引っ張り、生死がわからぬまま未帰還者を戦士死亡者扱いにし、遺骨や遺品でなく、名前を書いた木札が入った白木を渡し、死亡日を「1945年8月15日」と通告したそうだ。あまりにも薄情過ぎる。

 「過去の清算」というのは北朝鮮が主張する強制連行や従軍慰安婦の問題だけではない。北朝鮮には日本人自身が解決すべきもう一つの「過去の清算」があることを忘れているのではないだろうか。

 拉致問題が解決されなければ、戦後の処理、過去の清算もしないというのでは、北朝鮮に取り残された残留孤児や、北朝鮮に移送されたシベリア抑留兵を含む日本人の安否の調査、さらには遺骨の収集や墓参りなども放置されたままになるということだ。これもまた惨すぎる。

 拉致問題と同様に過去の清算もまた人道問題である。