2012年10月12日(金)

金正男襲撃説の真偽

 韓国で逮捕された北朝鮮の工作員が中国で活動していた2010年7月頃、国家安全保衛部から金正日総書記の長男、金正男(キム・ジョンナム)氏を中国本土で交通事故を偽装して襲うよう指示されていたとの韓国の検察の発表があった。

 この工作員は中国のタクシー運転手を買収し、具体的な襲撃計画を立てたものの、マカオに滞在する正男氏が中国本土に入ってこなかったため結局未遂に終わったとのことだが、マカオで計画を実行すれば成功したかもしれないのに、なぜ北京なのだろうか?マカオからはかつて申相玉映画監督とその夫人の女優の崔銀姫さんや現地のホステスを北朝鮮は船で拉致したこともあるではないか。

 また、襲撃の指示を受けた2010年7月の段階では正男氏はまだ「問題発言」はしてなかったはずだ。「問題発言」があったのは3か月後の2010年10月で、日本のテレビインタビューで「私は世襲には反対だ」と公言したのが最初だ。

 党代表者会を44年ぶりに開き、三男の正恩を後継者に決め、かつ党創建65周年の記念式典に華やかにお披露目させたまさにその日に長男が「私は3代世襲に反対する」と言ったわけだから北朝鮮からすると青天の霹靂だっただろう。

 この時、正男氏は北朝鮮が最もナーバスになっているこの禁止用語を正男氏は公然と使ったばかりか、北朝鮮を指して韓国が呼称している「北韓」という言葉も平然と口にしていた。

 「北韓」は北朝鮮にとっては日本が使う「北朝鮮」の呼称以上に反発する呼称だ。その証拠に今年南アフリカのワールドカップに出場した北朝鮮代表の監督が記者会見で韓国の記者が質問の中で「北韓」という言葉を使った瞬間、激怒して「この地球上に『北韓』という国はない」と一喝し、質問に答えなかったというハプニングがあったほどだ。

 それ以降も「改革、開放に向かうことを望む」と北朝鮮当局が嫌う「改革・開放」と言う言葉を口にし、挙句には「北朝鮮の生活が向上しているとは思えない」と、言わば『不適切発言」を繰り返していた。

 まあ、海外で言いたい放題、やりたい放題できたのも父親の「庇護」があったからこそ可能だったのだろう。その後ろ盾が昨年12月に亡くなったわけだから正男氏はこれまでのように自由気ままな振る舞いもできないし、なにより父親の葬儀に出席すれば、幽閉され、二度と出国できないから国葬にも出席しないだろうとみていた。

 ところが、日付は忘れたが、今年、読売新聞が、正男氏が金総書記の死去(12月17日)直後に北朝鮮に帰国し、総書記の霊前を訪れていたと報じていた。但し、国葬には出席せず、平壌で総書記の家族とともに遺体に別れを告げ、数日後に中国に戻った。遺体対面には正恩氏も同席したとみられるとそんなことが確か、その記事には書かれてあった。

 数日後ということは19日から20日を指すが、この時はすでに北京空港やマカオ空港には海外のメディアが張り込んでいたわけで、特徴のある正男氏が現れれば直ぐにキャッチされたはずだ。一体どうやってマカオに帰国できたのだろうか?とこの記事を読んで不思議に思っていた。

 昨年12月に帰国したのが本当なら、保衛部は2年前から「強制連行」を企てていたターゲットがまさに「飛んで火にいる夏の虫」のように自ら進んでやってきたのになぜやすやすと逃がしたのだろうか?一体、どっちが本当なんだろう?

 そもそも韓国発の「金正男暗殺説」はこれが初めてではない。

 韓国のKBSは2009年6月にも「金総書紀の後継者に内定したとされる三男、正雲氏の側近が最近、金正男の暗殺を企てたが、失敗した」(15日)と伝えていた。

 北京の特派員によるKBSの報道は「中国当局の消息筋」の話として報じられたが、およそ以下のように組み立てられていた。

 ―金正男氏の側近らが北朝鮮にいる金正男周辺人物をまず除去した後、マカオに在留中の金正男氏まで暗殺しようとした。

 ―暗殺は金正日総書記に知られないように計画された。

 ―しかし、計画が先週初中国側に知られる、急ブレーキがかけられた。

 ―中国当局は北朝鮮側に暗殺計画を中止するよう警告する一方で、安全部と軍の情報要員らをマカオに急派し、金正男氏を他の地域に避難させた。

 ―中国が金正男氏の保護に積極的に出た理由は金正男が中国内の高官らと長い間、親交を結んできたからである。

 ―金正男は当分の間、隠れ屋に留まりながら中国亡命を検討する可能性がある。

 面白いネタだったので、日本のメディアにも転載されたが、しかし、よく読んでみると、これまた矛盾だらけだった。

 そもそも「(暗殺計画が)先週初めに中国側に知られ、急ブレーキが掛けられ、金正男を他の地域に避難させた」とのことだが、「先週初め」と言うと、テレビ朝日が公園のベンチで正男氏に独占インタビューをした6月9日(火曜)前後のことだ。映像をチェックすると、この時、正男はインタビュー終了後、付き人も付けず、一人で立ち去っていった。KBSに情報を提供したこの「中国当局の消息筋」は、正男氏がその頃、日本のテレビインタビューに応じていたことを知らなかったのだろうか?

 また、「中国当局は北朝鮮側に暗殺計画を中止するよう警告した」とのことだが、「北朝鮮側」が誰なのかも不明だ。父親の金総書紀の知らないところで暗殺が企てていたなら誰よりも真っ先に金総書紀に知らせるのが筋だろう。

 ギリシャ神話の世界でもあるまいし、北朝鮮のような儒教社会にあって親が息子を殺めることも、異母兄弟であっても、金正日氏が後継争いをしていた異母弟の金平日氏を殺害せず、大使として海外に出したことをみてもわかるように手を掛けることはない。

 韓国の北朝鮮関連の「スクープ記事」(?}には「誰が」、「いつ」、「どこで」、「なぜ」、「どうやって」という肝心な点がいつも欠落している。

 この2009年当時は、「金正日総書記の長男、金正男氏の側近らが平壌で治安当局に連行される事件が相次ぎ、正男氏が滞在先のマカオから帰国できないでいる」という類のものから「張成沢氏が正男を支持し、軍が正恩を支持している」と異母兄弟の権力抗争の構図を描くものもあった。現在、張成沢氏が現在、正恩の後見人になっている事実は後者の記事が実にずさんであったことがわかる。

 いつだったか、韓国のメディアが「中国亡命を検討する可能性がある」と報じた時も、正男氏は日本のテレビインタビューで「どうして中国に亡命しなければならないのか」と怪訝そうに言っていたが、本当に北朝鮮から命を狙われているならば、国境を接している中国にとどまっているほうがむしろ危険であろう。

 すでに10代の頃からスイスやフランスで学び、今では家族も生活の拠点もマカオにあり、息子は昨年10月からボスニアに語学留学しているので北朝鮮に戻る必要性もない。

 危険が及ぶかもしれないと危惧するならばマカオからフランス、あるいは米国にだって亡命することも考えられる。フランス語は得意だし、フランスには叔母〈母親の姉)と従兄弟が亡命している。

 いずれにせよ、正男氏は半ば「亡命生活」を強いられているようだが、金正恩体制に挑戦的な発言を繰り返すならば、今度こそ、北朝鮮に強制的に連れ戻され、幽閉されるかもしれない。