2010年10月1日(金)
金正恩は金主席の若い頃にそっくりだった!
後継者・金正恩氏の写真と映像が公開された。
代表者会に間違いなく出席しているとは思っていたが、会場の最前列の向かって右側にいた。
軍の階級(大将)と党内のポスト(党軍事委員会副委員長)は判明したが、まだわからないのは「ジョンウン」という名前の漢字表記だ。
「正恩」なのか、それとも「正銀」なのか、未だ不明なので、一般メディアは一部新聞を除いて今でも「ジョンウン」とカタカナ表記している。
北朝鮮は漢字を使用せず、すべての表記がハングル文字だ。苗字もハングルで、漢字はない。従って、北朝鮮の人を表記する場合、ほとんどが当て字が使われるケースが多い。それでも、金正日総書記以下党や軍幹部の場合は、北朝鮮側から中国や朝鮮総連に漢字表記を伝えている。
ところが、歴史的な党代表者会の開催について、朝鮮総連の広報ホームページの日本語版も、機関紙の朝鮮新報日本語版も10月1日午前10時現在、この代表者会について一言も言及していない。
後継者を含め党幹部らが選出されたにもかかわらず、報道できないでいる。理由は定かではないが、「ジョンウン」の漢字表記で北朝鮮当局からまだ連絡がないのかもしれない。判明するまでの間「正恩」と表記する。
ところで、配信された写真と映像を見て、テレビでもコメントしたが、正恩氏は父親の金総書記よりも祖父の金日成主席の若い頃に実に良く似ていた。風貌といい、体格といい、握手するしぐさといい、そっくりだ。まさにDNAをそのまま引き継いでいる。刈り上げたところなど髪型まで似ていた。
解放後祖国に凱旋し、大衆の前に現れ、演説をぶった時の33歳の頃の写真をみると、生き写しではないかと錯覚したぐらいだ。
金主席が建国の父として、また指導者として国民に受け入れられたのは1930年代から1945年までの間、白頭山や満州(中国東北部)を拠点に抗日パルチザン活動を行っていたことによる。解放後人民大衆の面前に現れた金主席の33才という若かさに大衆は驚きの声を上げたと言われている。
代表者会に登場した正恩氏は27歳と当時の祖父に比べて6歳も若いが、映像を通じて、正恩を見た国民の中には65年前とダブって見えたかもしれない。実に凝った演出だ。
その65年前に労働党を創立した党の創始者である金主席の遺体が安置されている錦繍山記念宮殿をバックに党幹部全員が勢揃いして集合写真を撮ったことは、金主席の遺訓を代を継いで実現することへの誓いの表れだろう。息子から孫へと引き継がれた金政権を記念写真に収まった幹部ら全員で守るということを内外に誇示したいのだろう。
集合写真の一枚には娘のヨジョンさんと韓国や日本のメディアで「第5夫人」と呼ばれている金玉専属秘書も含まれていたが、金総書記の異母弟の平日フィンランド大使も、同じく異母妹(金慶鎮)夫婦も、さらに次男の正哲(ジョンチョル)氏の姿も見えなかった。長男の正男氏については言うまでもない。
異母母の正男氏はこれまでと同じようにマカオを拠点に海外で暮すのだろう。経済活動をしながら国家に貢献すると言っているが、今は父親が健在なので、出たり入ったりできるが、金総書記亡き後、果たして自由に帰国できるだろうか?
長男よりも心配なのが、次男の正哲氏の処遇と運命だ。
二人を知る金総書記の専属料理人だった藤本健二さんの話では、幼い頃から兄弟はとても仲が良かったとのことだ。正哲氏は面倒見がよく、弟をかわいがり、何かにつけて弟をたてて、むしろ弟に従っていたとのことだ。
兄弟は仲が良くても、問題は側近、取り巻き連中だ。金総書記亡き後は、権力を握らんがために正哲氏を担ごうとする野心家らが出てくるとも限らない。
それが、兄弟喧嘩の火種になりかねないと憂慮したからこそ、先代の金主席は正日氏の異母弟の平日氏が35歳の時に国外に大使として出したわけだ。平日氏は1988年に外に出されて以来、22年の長期にわたって、大使のままだ。
正哲氏ももしかすると、叔父と同じ運命を辿るかもしれない。