2011年5月19日(木)

南北首脳はテレビコマーシャルの子供

 テレビCMで流れている金子みすずの「『遊ぼう』っていうと『遊ぼう』っていう。『馬鹿』っていうと「馬鹿』っていう。『もう遊ばない』っていうと、『遊ばない』っていう。そうして、あとでさみしくなって『ごめんね』っていうと『ごめんね』っていう。こだまでしょうか、いいえ、誰でも。」の詩を還暦過ぎても兄弟喧嘩を止めようとしない愚かで、恥知らずの南北の当事者らに聞かせたいものだ。

 米国の圧力と中国の説得に応じて北朝鮮が渋々「遊ぼう」と韓国に対話を呼びかけると、韓国は「(哨戒艦撃沈と延坪島砲撃を)謝らなければダメ」と頑として拒む。北朝鮮が一言「ごめんね」とさえ言えば、これまたそれで済む話を強情にも素直に「ごめんね」とは言えないから実に困ったものだ。「遊ぼう」と「ごめんね」が言えないのは、こだまではなく、一卵性双生児だからだろうか。

 最も分かりにくいのが、李明博大統領の胸中である。金正日総書記との南北首脳会談を前任者の金大中、盧武鉉元大統領らと同様にやりたいのか、あるいはやりたくないのか、今一つはっきりしない。

 政権発足時は「日本の総理とも会うのに、金正日委員長に会わない理由はない。必要ならばいつでも会う」と言っていた。昨年1月29日のBBCとのインタビューでは「いつでも金委員長と会う準備ができている。平和と核問題解決に寄与する状況になれば年内でも会わない理由はない」と語っていた。

 それが、3月に哨戒艦沈没事件が起きると、当然のことだが、態度が豹変した。「任期中に一度も会わなくてもよいという立場を一貫して守ってきた。会談のための会談、政治的意図のある会談は行わないつもりだ」と在任中に南北首脳会談を実現できなかった全斗煥、金泳三元大統領ら先輩の前で勢いよくタンカを切って見せた。

 さらに11月に延坪島を砲撃されるや、堪忍袋の緒が切れ「もはや北朝鮮が自ら軍事的冒険主義と核放棄を期待することはできない」と述べ、「これ以上の忍耐と寛容はより大きな挑発だけを生むだけだ」と「(北朝鮮の挑発を阻止するためには)戦争も辞さない」との対決姿勢を鮮明にした。

 それが今年になると、再び「南北首脳会談の必要性は否定しない。必要ならばやれる」(2月1日)とテレビで語っていた。「もはや北朝鮮が自ら軍事的冒険主義と核放棄を期待することはできない」と北朝鮮を半ば見限っていたのに「北朝鮮が武力挑発でなく、対話の姿勢に出れば」と、3か月も経たない間に手の平を返した。

 今年3月1日の独立記念日には「我々はいつでも開かれた心で北朝鮮と対話する準備ができている」とさえ呼びかける始末だ。ところが、これに金総書記が反応し、4月26日に平壌を訪れたカーター元大統領を通じて「李大統領とあらゆるテーマに対して議論する準備ができている」とラブコールを送ると、今度は「真実味が感じられない。第三者を通じての要請はダメ」とばかり、金総書記のメッセージを携えたカーター氏の表敬訪問すら拒絶してしまった。「開かれた心」どころか、実に「狭い心」である。

 そうかと思えば、先週(10日)にベルリンを訪れ、唐突に「来年3月にソウルで開かれる核安全保障会議に金正日委員長を招待する」と言い出した。もちろん核放棄を約束することが前提条件であることは言うまでもないが、招待されたくもなければ行く考えも毛頭ない相手に「招待する」と呼び掛けても意味があるとはとても思えない。

 案の定、北朝鮮の祖国平和統一委員会は翌日(5月11日)に報道官談話を出し、李大統領の提案を「馬鹿げている」と一蹴した。北朝鮮は韓国が対話に応じないことに業を煮やし、今度は「馬鹿」と言い出す有様だ。

 ここで、TVコマーシャルと違うのは、「馬鹿」と言われても、韓国が大人の対応をし、「馬鹿」とは言い返してはないことだ。ここが唯一救われるとこでもある。